「東京百景・三十六 † 堀ノ内妙法寺の雨降る夜」を読む
読んでから少し時間が経ってしまったけど、この本のことをふと思い返す瞬間があるので、感想のようなものを書く。2019年6月18日読了という記録が残っていました。
知らぬ間に文庫版も出たらしい↑
又吉直樹さんが「火花」で第153回芥川賞を受賞して話題になり、二作目の長編「劇場」が出版され、どんどん映像化されていくのをなんとなく横目で眺めていた。私は本が好きだけれど、流行り物が流行ど真ん中の時期は、たいてい一歩引いてしまう。食指が動かないという感覚だろうか。全く興味がないわけではなくとも、たどり着くまでにかなりの時間を要する。ある日、本屋の話題書コーナーに、上記の二作と共に平積みされていたのが「東京百景」の単行本だった。あまり深く考えずに、既に手にしていた本とともにレジに持っていった。装丁が好みだったから。ビニールカバー、布張りの上製本に題字はラベル。どきどきして家に帰ったら、布とラベルの柄が印刷されたハードカバーだった。
「東京百景」は、100編のエッセイをまとめたもので、章タイトルのほとんどには都内地名か、目の前の風景が入れられている。著者が眺める東京と生活、日常。実際に体験したことや思ったことなどもコミカルに書いていたり、自虐っぽく書いていたり。私は「又吉直樹のヘウレーカ!」でMCをしているところくらいしか見たことがないけれど、あの人が書いた文章っぽいな、と勝手に腑に落ちた。
100編のエッセイの中で、ひとつだけ、毛色が違う章がある。それがすごく印象に残っていて、それをふとした時に、思い出す。
『三十六 † 堀ノ内妙法寺の雨降る夜』
この章だけ(おそらく)は、著者の視点で語られていたそれまでと違い"村に住む僕"の視点で始まる。この"僕"は、著者なのか、それともこの話における主人公なのかもわからない。
村に来た劇団の公演を"僕"が観る話なのかと思えば、その舞台はタイトル通りに、夜の妙法寺なのだ。エッセイ然としたエッセイ集を読んでいたつもりだった私は、突然あらわれた、荒唐無稽なストーリーに動揺した。幻想的な表現で綴られているのだけれど、「年に一度しか村に来てくれない劇団の公演中になぜ喋るのか?なんの権限があって喋るのか?」という、劇場あるある的心情が書かれていたりするのがシュールだ。わかる。
私はこの章のことを、コンビニの帰り道とか、夕方に家のゴミ捨て場を通り過ぎる時なんかに思い出す。何度も読み返しているわけではないし、オタク的に熱狂したわけでもない。けれど、そういう作品がふと頭をよぎる時、「なんかいいな」と思う。本が好きでよかった。