謡う鯨

映画やドラマを観たり芸術について考えたり書籍やコスメを爆買いしたりする。SF小説が好き。美術館や博物館にしばしば出現します。

ブロークバックマウンテンは夜勤明けに見るべき映画ではないが、素晴らしい映画である。

 映画を観た。

ブロークバックマウンテン(2005) 

 
ずっと気になってリストに入れてはいたのだけれど、実際には長らく鑑賞できていない映画でした。そのものの感想と言うよりは、鑑賞した上で思ったこと、考えたこと。
 

まえおき

映画について話す前に、少し前置きの話をしたいと思う。

近年、ゲイ、レズビアントランスジェンダーをはじめとするセクシュアルマイノリティーを主題とした映画、もしくは主人公やメインキャラクターがセクシュアルマイノリティーとして設定された映画やドラマを『LGBTQ映画/ドラマ』という見出しで見かける機会が多くなった。レインボー・リール東京(2016年"東京国際レズビアン&ゲイ映画祭"から名称変更された")や関西クィア映画祭など、積極的にセクシュアルマイノリティに関する映画の放映機会を作るイベントも各地で開催され、それらのイベントの知名度も確実に上がっているように思う。
その一方で、BL作品の実写化(※同性間の恋愛を主題とするという意味で、ここでは広義のLGBTQ作品として扱います)や、"LGBTQ映画・ドラマ"として制作される一部の作品では、制作関係者やキャストによる、不誠実な言動や配慮不足な言動が表に出て論争が起こったりもしていて、特にここ数年はいろいろと考えてしまうことが増えていた。
 
"LGBTQ映画"という語は、一つのジャンルを表す表現となったように感じる。
 
名前をつけるということは、多くの人に伝わるようにするという行為だ。その反面、実際に使用する側の理解が十分ではないまま、その名前だけが一人歩きするというリスクもある。LGBTQ映画という語を使えば、セクシュアルマイノリティーに関係するストーリーの作品なんだなとひと目でわかる。
この国では、いまだ同性婚が合法化されていない。身近ではないと感じている人も多くいることはわかっている。身近でない立場の人にとってみれば、LGBTQ映画というタグ付は、キャッチーで、センセーショナルで、商業エンタメを作る上で恰好の題材なのかもしれない。
 
ねえ、もうそろそろ2020年も終わるんですが……???
 
めちゃめちゃ誠実に作られていると感じる作品はある。この作者なら安心して観られる、読めると思う作家さんもいる。その一方で『ある属性であるということが(それ以外の属性のための)"消費に使われている””おもちゃにされている"』というような感覚に遭遇することが多くなって、まあまあしんどくなってきて、特に同性愛を主題とした作品は、話題作であってもかなり慎重に選ぶようになっていた。(なお、"ハーフオブイット: 面白いのはこれから"は最高だった。これもそのうち記事が書ければいいと思う

 

ブロークバックマウンテンは夜勤明けに見るべき映画ではないが、素晴らしい映画である

意を決して観ました。ブロークバックマウンテン。しかも何故か夜勤明けに。めちゃくちゃカロリーを消費した気はしますが、とてもよかった。
 
物語は1963年から始まる。アメリカの60年代といえば、様々な人権運動が活発だった時期だ。ゲイ解放運動が行われ始めた時期でもあり、69年にはストーンウォールの反乱が起きる。そういった社会背景があった時代の物語として、この映画は描かれている。
 
 観賞後になんとなく作品のWikipediaをひらいたらこんなことが書かれていた。
公開当初は「ゲイ・カウボーイ・ムービー」と評されたりもしたが、監督のアン・リー自身この映画を「普遍的なラブストーリー」と強調しているように、そのテーマが観客に広く受け入れられ、低予算で作られたにもかかわらず、アメリカ国内外で記録的な評価と興行収入をもたらした。-ブロークバック・マウンテン - Wikipedia 

監督が強調したように「普遍的なラブストーリー」だ。決してハッピーエンドとは言えないけれど。どんなに愛し合っていようが価値観が噛み合わない瞬間とか、人間がそこに二人いれば誰にでも起こりうることだ。そういうありきたりなもどかしさが描写されていた。「社会的な性役割を果たさなければならない」という自己の固定観念や周囲からのプレッシャー、価値観の相違、親として果たしたいこと、個人として果たしたいこと。そういう普遍性に、60年代のアメリカで同性同士で愛し合うことによって無条件で背負わされる理不尽なリスクが上乗せされる。それらは、現代よりもさらに濃く、あからさまだ。観ている方も苦しい。苦しいんだけれど嫌いになれなくて、画面を見続けてしまう。そんな感覚を映画で味わうのは久々だった。

美しく純粋なばかりではいられなくて、不格好に傷ついて、不器用に傷つけて、それでも他者と繋がりを持つ。それが人間であるということなんだろうと思う。

 

 

さいごに

現在LGBTQ映画と呼ばれている映画たち(そのほとんどはラブストーリー)が『"セクシュアルマイノリティーの恋愛が"題材だから』と言う理由で、ストレートの恋愛を描く"ラブストーリー”と別のものとして扱われる機会がまだまだ多い。あらゆる恋愛の物語が『ラブストーリー』として語られる日は、いつになるだろう。LGBTQ映画という呼称すら過去のものになる時代が、いつか来るのだろうか。私が生きているうちにそんな世界を体験できるのかもわからない。ブロークバックマウンテンは、ジャックとイニスは、"多様な恋愛模様や人生模様があるこの世界の一部分を切り取った、そのなかのたまたまひとつ"として描かれた。そういうフィクションがこれからももっと増えていけばいい。

私は、ハッピーエンドや勧善懲悪のストーリーをのみ摂取するだけでは生きてはいけない。ポップコーン映画的な純度の高いエンターテイメント作品を無邪気に楽しみたいことはもちろんある。でもそれだけではだめなのだ。

私には、現実や時代や他者と向き合うためのチューナーとなってくれる作品が必要だ。そしてその役目を負ってくれる作品たちは、5年後、10年後に再度鑑賞した時、また新しい発見をもたらしてくれる。ブロークバックマウンテンは間違いなくその役目をまかせたくなる映画だ。数年後、再見した時、私は何を思うだろうか。