謡う鯨

映画やドラマを観たり芸術について考えたり書籍やコスメを爆買いしたりする。SF小説が好き。美術館や博物館にしばしば出現します。

映画「ジュラシックワールド」ー映画をどう楽しむか。

※2020/04/46のnoteのお引越し記事です

まじで今更感がつよいですが、映画ジュラシックワールドを鑑賞しました。

図鑑やドキュメンタリー風の映像で観る恐竜は好きなのだけど、ちいさいころからパニックムービーの災禍(これもただしい表現じゃない気もするが)として描かれる恐竜はこわくて、ジュラシックパークシリーズは過去作含め、いままで何度も観ているはずなのに、なにひとつストーリーを覚えていない。

のですが、いいかげん大人になったことだし(?)今ならイケるのではなかろうか。クリス・プラット主演だしな!!!!!というほぼ勢いに近いマインドになったのだ。私の行動はいつも超唐突である。

 

先述した通り、パニックムービーの"恐竜"がこわいためあまり観ない。というのもあるんだけど、パニックムービーというジャンル自体があまり率先して観るジャンルではない。なぜパニックムービーではひとをイライラさせる行動をするキャラクターをフォーカスするんだろう、と脳内で愚痴りつつ、それも物語でリアリティのある人間や人間の愚かさを描写するテクニックなんだよな〜とか思ってる。知らんけど。

ジュラワも中盤までは、パニックムービーあるあるのイライラとハラハラと恐竜怖いが畳みかけてきて爆発しそうになったんですが、なんか気づいたら食い入るように観てた。いや、やっぱりあの人工恐竜インドミナスは死ぬほど怖いのだけれど…

ラプトルとオーウェンの描写は逐一心を掻き毟られそうになった。異種間の信頼関係や繋がりみたいなものを描く物語は結構あるけど、これからも一緒さ!ハッピーエンド!!!みたいなやつの場合はなんか無条件にほっとしますよね。どれだけご都合主義だと言われようがさ、ランペイジとかめっちゃいいじゃん。この作品はそうじゃなくて、お互いに関係を築いたけど、種族の違いは深い谷のように存在していた。それは環境的なものだったり、一時人間を襲ったという事実ができてしまったことだったりで濃く眼に見えるようになった。それをオーウェンは、そしてブルーもそれぞれにわかった上での別離だったように感じました。オーウェンの、人間としてできる最大限の良い別れ。

続編では幼体のラプトルが出る?っぽいし、そうじゃなくても気になるので観てみようかなと思います。

ところで、ラストの避難所のシーンで、「私たちどうしたらいいの?」と問うクレアにオーウェンは「一緒にいよう、生きていくために」みたいな感じで答えましたけど(英語の意訳だから字幕とも吹き替えとも違ってると思うんでもし合ってなかったらすまん)、なんかまじそれなという感じだったんですよね。インタビューとか読んでいないし、ジュラシックワールドがどんなテーマで作られた作品かはっきりとはわからないんだけど、これを言わせたかった(言いたかった)んだろうなあと、なんとなく思った。人と人が一緒にいる理由は、友情であったり、恋愛関係であったり、家族であったり、それは当人たちがいいものと感じているかそうでないと感じているかを問わず、たぶん無数にある。それぞれがどう感じていようが、人と人が寄り添ってしまう、何かしらの関係を築きながら生活してしまうその際たる理由は、”ただ今わたしたちが生きていくため”なのかも。

唐突に話が変わりますが、序盤〜中盤で観てるのがしんどい映画をラストまで鑑賞しきることはそんなに多くない。今回はラストまで観ることができたけど、だからって全肯定で手放しに拍手喝采面白かったね!!!!となれるわけじゃない。ラストまで行けないままギブアップしちゃう作品だってあるし。

でも、それでいいんじゃないか?

最近はそう思えるようになりました。

何かを好きだからといってその”何か”の隅々までを好きでいなくちゃいけない理由はない。

ポジティブな感情を持ったシーン、ネガティブな感情を持ったシーンそれぞれに、自分はどうしてそう思ったのか。そのシーンのどんなところにそう感じたのかを考えて、紐解いて、今の自分を見つめる鏡になってくれる映画というものが、心底好きです。